日本人が知ってはならない歴史 4/6

【日本人が知ってはならない歴史】4/6


盧溝橋で戦争が始まったと言われているが、
これも真実の歴史から逸脱した歴史。

昭和12年7月7日に北京郊外の盧溝橋で響いた、一発の銃声が・・・・
というふうになりますが、

ところが本当は、その前年の1936年、12/12に西安事件が起こる。

蒋介石が部下の張学良に捕まり、捕虜になった。
監禁された、というやつ。

延安の毛沢東たちに、蒋介石の逮捕を知らせると、大変喜んで、
処刑しようとします。

しかし、スターリンがそれを許さなかった。

これはコミンテルン(第三インターナショナル 共産主義の国際組織)が
決定したことで、
蒋介石を生かして、日本との全面戦争に踏み切らさせろ、と命令する。

そして、共産党委員は国民党と一緒になって、日本との戦いを拡大し、
革命の目的を実現させよ、と。

砕氷船の理論、と呼ばれるもので、
蒋介石の国民党軍を、まず固い氷を砕く、砕氷船にさせ、
革命の目的を達成したら、砕氷船はその時に撃沈すればよい、という、
有名な、コミンテルンの砕氷船のテーゼ。

蒋介石は日本との全面戦争をやるんだ、ということを約束させられる。

日本を中国に釘付けにし、対ソ戦を回避させるスターリンの思惑が働いた、
とも言われている。

だから、張学良、蒋介石、周恩来、
この3人がきっと、この時に約束の文字を交わしただろう、と。

文書は出てこないだろうけどね、と。

というのも、
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の西安事件、参照。)

後年、蒋介石は数々のインタビュー内において、
西安事件に関して一切発言しようとはしなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6


って、やっぱり、知らせちゃいけない歴史があったってわけかな。




ここで宮内庁長官の富田さんのメモについて。


公開された富田メモの一部は以下の通りである。

靖国神社についての発言は
1988年4月28日(昭和天皇の誕生日の前日)のメモにあった。

一連のメモは4枚あったとされ、そのうちの4枚目にあたる。


前にもあったが どうしたのだろう
中曽根の靖国参拝もあったが
藤尾(文相)の発言。
=奥野は藤尾と違うと思うがバランス感覚の事と思う、単純な復古ではないとも。

私は或る時に、A級が合祀され
その上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ



富田メモは、昭和63年の4月28日のことと発表され、
実際にメモにも「プレスとの会見、4/28」と書いてある。

しかし、単純な事実として、
4月28日に昭和天皇は記者会見をなさっておりませんし、

4月28日に記者会見をなさったのは、徳川侍従長で、
徳川侍従長が1988年4月12日に退職されたので、
それを受けての、退職記念の記者会見が4月28日に行われており、

その時に、宮内庁長官の富田さんも、記者会見に同席している。

だから、4/28のプレスとの会見のメモだと言うのなら、
それは徳川侍従長の退職記念の記者会見でしかありえない。

しかも徳川宗家の御当主(徳川侍従長のこと)といたしましては、
「松平は・・・」とこうなる。

昭和天皇の言葉を記したものではない、と。



真珠湾攻撃について、

真空の海バキューム・シー)」というオペレーション(作戦)指令が出る。

これはヒトカップ湾からハワイへ至る海に、近寄るべからず
真空地帯にしておけという命令

日本海軍の艦隊を発見するな、と。

ルーズベルトの部下は、日本機動部隊の通路の北太平洋を
真空海域」と指定。

日本艦隊がヒトカップ湾を出航した11月25日(ワシントン時間)の約一時間後に、
この指定を行っている。

つまり日本艦隊は発見されないように、アメリカから手厚く保護されながら、
奇襲への航海を続けた
というわけ。

日本艦隊は、まるでガラガラ蛇のように、
「沈黙」の「艦隊行動」を続けていたわけ。

というのは、日本艦隊はが厳重な無電封鎖をしていたというのは嘘で、
三地点からの無電を傍受すれば、三つが交差したところが、軍艦のいる所。

機関の赤城、以下31隻の呼び出し音は全文分かっていた。

だから、刻一刻と艦隊が動いていくのが、分かっていたのだと。




「カモ~ン ジャップ」っだったわけだ、と。











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