戦後の日本では決して教えてもらえない斉南事件


尼港事件(にこうじけん)って知っていますか?

斉南事件って知っていますか??


私は、恥ずかしながら、両方とも聞いたこともありませんでした。


尼港事件(にこうじけん)は、1920年(大正9)、

ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、中国人4000名が、

共産パルチザンを名乗って、黒竜江(アムール川)の河口にある

ニコライエフスク港(尼港)にいた石田領事以下700名余の

日本人居留民および日本陸軍守備隊を虐殺したという事件



だそうです。


斉南事件は、1928年(昭和3)5月3日に起きた事件です。



シナで日本人や、外国人が虐殺された事件はたくさんありますよね。

例えば、通州事件、今では有名です。


教科書ではもちろん、こういう歴史の事実は、

絶対に教えてもらえませんが、


ネットで検索すれば、多くの方が、そういった、

中国人による残虐事件についてUPされています。





腰の軍刀は竹光か
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-597.html

腰の軍刀は竹光か

関東軍は刀の抜き方を忘れたか

これは、昭和3年頃、満州青年同盟が

当時の関東軍に対して投げつけた言葉です。


少し時間をさかのぼります。


1917年(大正6)年、ロシア革命が起こると、

世界を共産主義支配下に置こうとする

いわゆる共産主義革命の嵐
が世界を覆います。


そしてシナ大陸では、共産主義革命の名のもとに、

凶悪犯の釈放を求めて武装蜂起したりという

いわばならず者たちの徒党化が促進
されます。


彼らの背後にはソ連がいて、銃や実弾などを裏から供給する。


これによって、普通に生活をしようとする多くの庶民が犠牲になります。


そんな時代背景の中で起ったのが、

1920年(大正9)の尼港事件(にこうじけん)です。


尼港事件については、以前、

“日本はなぜシベリアに出兵したか”という記事で

詳しく書かせていただきました。


事件のあらましを簡単に振り返ると、

ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、中国人4000名が、

共産パルチザンを名乗って、黒竜江(アムール川)の河口にある

ニコライエフスク港(尼港)にいた石田領事以下700名余の

日本人居留民および日本陸軍守備隊を虐殺したという事件
です。


その様相は、まるで映画バイオハザードでゾンビの大軍に取り囲まれた

少数の人間の死を賭した戦いそのものだった。


日本人居留民は極めて残虐な方法で全員惨殺されてしまいます。


こうしたパルチザン達による、乱暴狼藉は、日増しに激化していきます。


シナ人達による、日本人、韓国人への迫害や、

鉄道侵害事件などが年中行事化
する。


当時、奉天鉄道事務所管内だけでも、1年間の被害は30万を越え

電話線を切られたり、線路をはがされたり、

はては日本守備兵が拉致される事件まで起っていた。


日本総領事は、その都度「厳重抗議」したときまり文句を言うけれど、

その「厳重抗議」だけでも昭和2年頃には、

未済が370件もたまっていたという記録
があります。


当時、満州方面には、日本の正規軍である関東軍がいたけれど、

軍は命令がなければ動けない



傍観しているだけです


だから日本人会で、青年連盟の岡田猛馬氏が語ったのが、有名な

「関東軍は刀の抜き方を忘れたか。腰の軍刀は竹光かっ!」

という言葉です。


しかし、昭和2年頃の日本の思想界、言論界、政界、財界等は、

国際連盟の平和思想や、軍縮の呼びかけ等に左右され、極端に反軍的
だった。


日本の軍備を、軍国主義のあらわれであるかのごとく言いくるめ、

むしろ日本の軍傭を縮少し、

シナや欧米に対し、萎縮したかのような外交を説く者まで現れていた



これを日本の“弱味”とみた英米ソ等は、その魔の手をシナに差し伸べ、

支那をそそのかし、日本に対して露骨な排日侮日運動を行わせる



こうした他国からの圧力に平然と屈し、

現実に起こる被害にも遺憾の意を表明するだけのゴマカシが

まかり通っている状況
にあった。


しかし、もし日本がそこで撤退したら、東亜はどうなるか。


英米仏蘭やソ連の不当な植民地政策や理不尽な要求跳ねのけ、

アジアから世界を解放し、人種の平等という理想の人類世界を建設するという

大日本帝国建国の大使命はどうなるのか。


人々の平和と繁栄を願い、まじめに活動する各地の日本人たちが、

ただ徒に虐殺され、惨殺されている現実を前に、

日本国政府はなんら行動する手段を持たないのか。


こうした情況にたいして、軍部や政友会はもちろん、

毎日や朝日などの大新聞も、ようやく満蒙の邦人擁護を主張しはじめる



もはや平和外交では満州問題は解決のチャンスは到来しない。

そういう言論も登場し、国論は二つに割れたまま日が過ぎてゆきます。


そんな時代背景の中で起ったのが、1928年(昭和3)5月3日の斉南事件です。


済南というのは、山東省にある商業都市です。

そこには、日本人を中心として多くの外国人が居住していた。


その斉南で、シナの南軍と北軍との戦闘が起こった


そこで日本は居留民保護のために同年4月下旬に出兵し、

城外の商埠地に戦いが波及しないようバリケードを築いた



このとき、南軍の総司令蒋介石

治安は中国軍によって確実に確保することを保障するので日本軍は撤去して欲しい

と要請され、日本軍は5月2日、バリケードを撤廃した。


日本軍がバリケードを撤廃した直後、事件は起こった


シナの南軍暴兵が、満州日報取次販売店を襲撃し掠奪した。

南軍兵士は、駆けつけた日本人巡査にも多数で暴行を加える。


日本の救援部隊が現場に急行すると、

中国兵はたちまち遁走して兵舎に隠れ、銃撃を加えてくる



やむなく日本軍がこれに応戦する間に、

中国兵による乱射掠奪は、一挙に市中全域に拡大
する。


日本軍は、全体の治安維持のために、停戦の申し入れをするのだけれど、

白旗を掲げて停戦を呼びかける日本軍の軍使にさえ、

中国兵は銃撃し、これを一方的に射殺



たちまちのうちに、市内全域が修羅場と化し、

各所で多数の男女日本人居留民が暴兵の手で惨殺された、という事件です。


ちなみにこの事件では、日本人女性が両腕を帯で後手に縛られたうえ、

顔面、胸部、乳房に刺創、助骨折損、

陰部には棒をさしこまれ惨殺されていた写真などが現在でも残っています



斉南事件の被害者(24歳)の女性

画像




またこの事件で被害にあった男性は、両手を縛られ地上を引きずられたうえ、

頭骨破砕、小脳露出、眼球突出して殺害されていた者、

顔面破砕され、両眼を摘出して石をつめられて殺害された者、

頭および顔の皮をはがれたうえ、眼球摘出、内臓露出、

陰茎切除して殺害されるなどして12名が、凄惨な殺され方をし、

その他約400名が暴行侮辱、掠奪等の被害
を受けている。


この年、シナの張学良は満州に青天白日旗をひるがえし、

激化した排日運動は、抗日、蔑日運動へと進展
した。


シナの背後には米英が付き、援蒋ルートなどを通じて、

蒋介石政権に対し、公然と兵器・糧食などの支援物資を送り続けた



要するにシナと日本を戦わせ、その双方を疲弊させて

シナにおける植民地利権を確定させる、という方針
だったわけです。


一方、日本は和平、防共、建国を唱える汪兆銘を支援し

南京国民政府(汪兆銘政権)を承認
した。


そして1941年(昭和16年)12月8日、日米が開戦します。


この開戦に呼応して、蒋介石政権は翌12月9日、日本に対し宣戦布告をする。


ちなみに、シナから日本への宣戦布告は、あくまでも蒋介石政権からのものです。

そして当時の蒋介石政権は、まだ世界中どの国からも

正規のシナ政権(国家)としては認知されていなかった
ことを付言します。


また、文中にある斉南事件の際の被害者の検視の模様の写真を、

あろうことか、シナは「日本軍による人体実験の犠牲者」として

この写真を国家を上げて捏造・宣伝



教科書に挿絵を挿入するのみか、

なんと731部隊記念館では蝋人形にまでして展示しています。


シナのねつ造歴史観を象徴する事柄だと思います。


画像


中国の歴史教科書にも掲載(翻訳版)

画像


731部隊記念館では蝋人形になって展示


田母神氏が、広島講演で述べていましたが、

シナ・朝鮮等に対しては、日本が早期に毅然とした態度をとることが

何よりも肝要といえようかと思います。


赤軍派が日航機のハイジャックを行ったとき、

日本は時の福田首相が超法規的措置として犯行グループの要求に応じた

結果起ったことは、繰り返しの拉致被害です。


今回ご紹介した尼港事件から斉南事件までの流れを見ても、

もし、日本が早期に徹底した武力を用いてシナ側の反日勢力を掃討していたら、

事態はここまで深刻にならずに済んだかもしれない。


最大の問題は、「腰の軍刀は竹光か」とまで揶揄されながらも、

平和ボケして悪を誅する心を失っていた日本国内の姿勢にこそ

問題があった
のであろうと思います。


悪には断固として戦う、悪の主張は断固として許さない、

動くべき時には動く、という凛とした姿勢が、早期に日本側に確立されていたら、

尼港事件や斉南事件で起ったような悲惨な被害を出さずに済んだのではないか。


悪が枢軸国家の後ろ盾を得るほどまでに放置したことが、

結果として、多くの人命を犠牲にするという事態を招いたといえるのではないか。


このことは、たとえば、町に犯罪が起こったときに、警察がこれを放置したら、

犯罪者はそのうち徒等を組み、より一層、傍若無人となり、

しまいに組織になり、下手をすれば国家にまでなってしまう、

ということを象徴しているように思います。


オーム事件なんて、まさにその典型でしょう。


同様に、実際に被害が発生し始めているのに、無責任な平和主義を唱え、

事なかれ主義の名のもとに、中途半端な平和外交をしていくこと、

そのことが、より一層、大きな被害者を生む、

それも悲惨としかいいようのない被害を産み、さらにそれを拡大させる原因になる


ということをも示していると思います。


いつも思うのです。

歴史にIFは禁物とかいうけれど、歴史というのは、学ぶためにこそある。


「学ぶ」ということは、何年何月に何があったかという事実を

知識として得るだけでなく、

もしそのとき~だったら、時代はどのように変化したかを考える。

想像力を働かせる。


そのことによって、過去の悲劇を繰りかえなさいことが、

大切なのではないかと思うのです。


これを書くと、反論をたくさん受けてしまうかもしれないけれど、

特攻というのは、悲劇です。


しかし、もし日本海軍が、ミッドウエー海戦のときに、

この史上初の作戦である特攻を300機程度の航空兵力で実施していたら、

おそらく米太平洋艦隊は、その時点で全滅していた。


そうなったら、歴史はおおきく変わっていたことでしょう。


じくじくせずに、やるときはやる!


悪は、早期に叩き潰す!


日本の大東亜戦争前の歴史は、

そんなことを私たちに教えてくれているような気がします。



凛として愛(4/7)

http://www.youtube.com/watch?v=MjhR4NvXiEs&feature=player_embedded


ねずきちの ひとりごと  より転載させていただきました。




・。・ 戦後、

私たちが、もちろん知っているべきなのに、

隠され、知らされていない歴史が本当にたくさんあります。


大正生まれで、二度、兵隊に行った私の祖父は、

もちろん、「通州事件」、知っていました。

でも、私が聞くまでは、そういうことは、一言も教えてはくれませんでした。


なぜ、私たちは教えてもらっていないのでしょうか。

本当はなかった「南京大虐殺」については教科書で教えるのに。


戦後、GHQは、私たちに民族教育も禁止しました。


今、ネットで、多くの日本人が、

戦後、そうやって隠されてきた、多くの歴史の真実を知り初め、

学校で教えられた捏造・偏向された偽りの歴史の洗脳から

徐々に解放されつつあります。


間違った情報からは誤った結論しか導き出せません。

本当の歴史を知ることは、正しい未来を導くために、絶対に必要なこと。





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