在日一世たちは、終戦後、楽しくて楽しくて、仕方なかったんだと・。・


戦後の、在日朝鮮人の非道については、

ネットでたくさんの方が取り上げられていますが、


こういった悪行を、朝鮮人自身も、本当は、やっぱり、知っているんですね。



いま在日は、「差別された」って言ってるけど、

「差別」じゃなくて、


朝鮮人たちと「関わり合いになりたくない」だけですね。



暴力団関係者を「差別する」、というか、


暴力団と「関わらないようにする」のを、非難する人はいないでしょう。


朝鮮人も、それと同じですね。




「終戦の時の楽しさったら、なかった」と、在日一世が語っているのが、

「コリアン世界の旅」という本の中に書いてあるそうで。



戦後、朝鮮人が日本で起こした暴力事件、多すぎますよね。



メール転載します。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

所謂 「朝鮮進駐軍」について書かれた本を確認。


昨日、書店にて、

所謂「朝鮮進駐軍」の悪行について書かれている本を確認。


「コリアン世界の旅」(講談社プラスアルファ文庫) (文庫) 野村進 (著)
http://www.bk1.jp/product/03122489

画像



全般的な内容は在日朝鮮韓国人へのインタビューが主体なので

当然 在日朝鮮韓国人に都合の良い事の記述が主になっている本であり、

当然、在日朝鮮韓国人が不法に日本に入国して来た事なんかの事は

一切書かれて無かった。



画像



画像






ウィキペディアによると、

正しくは「朝鮮進駐軍」では無く「在日本朝鮮人連盟」と言うみたいだ。



「在日本朝鮮人連盟」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 在日本朝鮮人連盟

在日本朝鮮人連盟(ざいにほんちょうせんじんれんめい)は、

昭和20年(1945年)に結成され、昭和24年(1949年)9月8日に解散した

日本在住の朝鮮人によって組織された団体。

略称は「朝連(ちょうれん、チョリョン)」。




詳細は「金天海」を参照

昭和20年(1945年)10月15日、日比谷公会堂で、

在日本朝鮮人連盟が結成された。

全国各地の代表4000人が集まった。

結成時の綱領は

「新朝建設に献身的努力を期す」

「世界平和の恒常的維持を期す」

「在日同胞の生活安定を期す」

「帰国同胞の便宜と秩序を期す」

「日本国民との互譲友誼を期す」

「目的達成のために大同団結を期す」の6項目だった。

金天海が、最高顧問に就いた。

韓徳銖(後の在日本朝鮮人総連合会議長)は神奈川県本部委員長に就任した。


日本共産党の尖兵として、

武生事件では裁判所や検察庁を焼き討ちするなど

終戦後の混乱が続く日本国内各地で数々の暴動・騒擾・暴力事件を引き起こすが、

GHQが1949年9月8日、団体等規正令の「暴力主義的団体」として解散を命じ

その資産は没収されることになった。

その後は、後継団体として在日朝鮮統一民主戦線が結成され、

後に朝鮮総連へと発展していった。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E
4%BA%BA%E9%80%A3%E7%9B%9F



主な事件一覧

朝鮮進駐軍及びその後の在日本朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。


大阿仁村事件(1945年10月22日)

生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)

直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)

富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)

長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)

富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)

坂町事件(1946年9月22日)

新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日~29日)

首相官邸デモ事件(1946年12月20日)

尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)

阪神教育事件(1948年4月23日~25日)

評定河原事件(1948年10月11日~12日)

宇部事件(1948年12月9日)

益田事件(1949年1月25日)

枝川事件(1949年4月6~13日)

高田ドブロク事件(1949年4月7日~11日)

本郷村事件(1949年6月2日~11日)

下関事件(1949年8月20日)

台東会館事件(1950年3月20日)

連島町事件(1950年8月15日)

第二神戸事件(1950年11月20~27日)

四日市事件(1951年1月23日)

王子事件(1951年3月7日)

神奈川事件(1951年6月13日)

下里村役場事件(1951年10月22日)

福岡事件(1951年11月21日)

東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日)

半田一宮事件(1951年12月3日~11日)

軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日)

日野事件(1951年12月18日)

木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日~23日)

姫路事件(1952年2月28日)

八坂神社事件(1952年3月1日)

宇治事件(1952年3月13日)

多奈川町事件(1952年3月26日~30日)

田川事件(1952年4月19日)

岡山事件(1952年4月24日~5月30日)

血のメーデー事件(1952年5月1日)

上郡事件(1952年5月8日)

大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)

広島地裁事件(1952年5月13日)

高田派出所襲撃事件(1952年5月26日)

奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日)

万来町事件(1952年5月31日~6月5日)

島津三条工場事件(1952年6月10日)

醒ヶ井村事件(1952年6月13日)

葺合*長田事件(1952年6月24日)

吹田*枚方事件(1952年6月24日~25日)

新宿駅事件(1952年6月25日)

大須事件(1952年7月7日)

舞鶴事件(1952年7月8日)

五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日~26日)


参考文献

法務研修所編『大須騒擾事件について』1954年

横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年

篠崎平治『在日朝鮮人運動』1955年

大阪市行政局編『大阪市警察誌』1956年

新潟県警察史編さん委員会編『新潟県警察史』1959年

名古屋市総務局調査課編『名古屋市警察史』1960年

瓜生俊教編『富山県警察史 下巻』1960年

山形県警察史編さん委員会編『山形県警察史 下巻』1971年

宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年

大阪府警察史編集委員会編『大阪府警察史 第3巻』1973年

警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年

兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年

愛知県警察史編集委員会編『愛知県警察史 第3巻』1975年

青森県警察史編纂委員会編『青森県警察史 下巻』1977年

坪井豊吉『在日同胞の動き』1977年

警視庁史編さん委員会編『警視庁史〔第4〕』1978年

思想の科学研究会編『共同研究 日本占領研究事典』1978年

仙台市警察史編纂委員会編
『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年

長崎県警察史編集委員会編『長崎県警察史 下巻』1979年

李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年

福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年

山口県警察史編さん委員会編『山口県警察史 下巻』1980年

警察文化協会編『戦後事件史』1982年

日本国有鉄道公安本部編『鉄道公安の軌跡』1987年

講談社編『昭和・二万日の全記録 第9巻』1989年

朴慶植『解放後 在日朝鮮人運動史』1989年

百瀬孝『事典・昭和戦前期の日本 制度と実態』1990年

金慶海、堀内稔編『在日朝鮮人・生活擁護の闘い』1991年

荒敬『日本占領研究序説』1994年

百瀬孝『事典・昭和戦後期の日本 占領と改革』1995年

竹前栄治、中村隆英監修
『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年

『秋田魁新報』1945年

『神奈川新聞』1951年

『西日本新聞』1951年

『中部日本新聞』1951年、1952年

『大阪新聞』1952年

『京都新聞』1952年

『神戸新聞』1952年

『山陽新聞』1952年

『中国新聞』1952年

(http://anond.hatelabo.jp/20100131154721より抜粋転載。)



朝鮮進駐軍

概要

一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、

おおむね1945年昭和20年以後に現在 特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人・韓国人)

もしくは現在日本に帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。


戦後、日本がポツダム宣言を受け入れると 日本各地で、

婦女暴行、窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、

土地建物の不法占拠、鉄道や飲食店での不法行為等

様ざまな朝鮮人による犯罪が多発
した。


GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民が

朝鮮進駐軍の犠牲となり殺害されたとされている





朝鮮進駐軍による朝鮮人犯罪及びテロ行為について


服装・武器及び組織について



戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。


銃は三八式歩兵銃や機関銃など

盗んだ旧日本軍の武器で武装し組織化を行った


朝鮮進駐軍では旧日本空軍のパイロットの軍服を好んで着用したが、

これは日本兵に対するあてつけとも、日本人(皇民)に対するあてつけとも言わた。


組織ではいくつかの本部設けたが、

実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、

個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。


朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)は

のちの在日本朝鮮人連盟。


更にこれが在日本大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、

これが現在の民団と朝鮮総連となる。


時代背景


当時の日本では戦場に男手が駆り出され

極度の男手不足
に陥っており、

また都市部においても疎開や空爆による被害で

人手が足りない状況が長く続いていた。


また警察組織においても、武器の使用が認められないなど

戦後特有の制限があり

戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、

このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。


いまでは考えられないことではあるが、

当時はヤクザ(現在の指定暴力団)が朝鮮人から、

日本人の生活を守る役割を一部果たしていた



この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、

通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感や犯罪者といったイメージを

日本人が抱くようになってから
である。


ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。



朝鮮人による犯罪


朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。

特に川崎・大阪・神戸・都心等当時朝鮮人が比較的多かった地域で多発した。


特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や

拳銃・日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、

のちに警察やGHQにより鎮圧された。


市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、

多数の犯罪行為を行った。


拳銃や刃物で武装しており一般市民は無力であり

繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。


またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、

多い説では1万人以上であったとも言われている。



1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では

武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。


翌46年には長崎県警察本部で、

在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、

10名に重軽傷を負わせ うち1名は死亡にいたらしめた。


46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人

応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。


首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。


1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。


これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1

800名の朝鮮人が検挙された。


戦後はこのような事件が日本各地で続発した。



第八軍司令官 ロバート・アイケルバーガー中将は、

正規の大部隊を 治安確保のため

朝鮮人に対して 街中に簡易陣地を引くなどして配備した。



GHQ ダグラス・マッカーサー最高司令官は

「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表
するなど

朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。



昭和26年に浅草で朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、

米兵一名が死亡、二名が負傷した。


「田岡一雄自伝・電撃編」 1982年 徳間文庫 

(「韓国のイメージ」鄭大均 より)  


彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、

徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。

通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、

無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。

善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。

こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。

袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、

肩で風を切って街をのし歩いた。

腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた

彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。

警官が駆けつけても手も足もでない。

「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。

警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。

(ここまでhttp://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/14099974.htmlより抜粋転載。)



●終戦後 「朝鮮進駐軍」武装部隊が首相官邸襲撃●

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「朝鮮進駐軍」部隊2000人による「首相官邸襲撃事件」が1946年起きた


約2000人 の在日朝鮮人「朝鮮進駐軍」部隊が完全武装して首相官邸に突入


日本の警官隊は当時武器の所持は禁じられていため、米軍憲兵隊に応援を頼んだ


そこで米軍憲兵隊と「朝鮮進駐軍」との間で大銃撃戦闘へと発展した。


戦後の在日朝鮮人は、なんの国際法上の地位もないにも関わらず、

勝手に自分たちを「戦勝国民である朝鮮進駐軍」であると詐称し、

三万人もの武装集団となって全国主要都市に出現し暴れまくった




在日朝鮮人集団は、武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し、

勝手に「朝鮮進駐軍」と名乗り、無差別に多くの日本人市民を殺害した




GHQの 記録に残っているだけでも四千人以上の殺害記録が残されている。


戦後の治安が整っていない空白を良いことに、

「朝鮮進駐軍」と名乗った在日朝鮮人は、

土地の不法略奪、金品略奪、強姦、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など

暴れ放題の限りを尽くした




「朝鮮進駐軍」と名乗る暴徒たちは、個々に部隊名を名乗り、

各地で縄張りを作り 暴れた



これら「朝鮮進駐軍」 元締め組織が「朝鮮総連」、ヤクザなどになっていった



国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した


そして そのまま、パチ ンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、

そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている




農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、

食料や商品を根こそぎ 奪って行き、

それらは全て戦後の闇市で売りさばき、暴利で財を成した
のは彼らであった。


財を成したのは彼らは分派し、政治組織として社会主義、

共産主義組織へと発展し、

政界にも進んだ




「朝鮮進駐軍」と名乗る在日朝鮮人暴徒たちは、

通りすがりの市民に言いがかりをつけ集団暴行をはたらく。

無銭飲食は当たり前、白昼に目に付いた婦女子を路上で集団強姦するなどを、

日常茶飯事に繰り返した。


在日朝鮮人は「朝鮮進駐軍」部隊と名乗り、武装して、町をのし歩いた。


彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは

瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩した。


腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を振り回しては、

手当たり次第に日本人を殺傷、暴行し、略奪の限りを尽くした。


通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、

無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをした。


善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。


こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。


袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、

肩で風を切って街をのし歩いた。


警官が駆けつけても手も足もでない。

終戦後の警官が、一切の銃器の所持が許されていなかったのをよいことにして、


「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」

と、丸腰警官を殴り、ド突き回し、警備用の木刀や飾りのサーベルをヘシ曲げた。



戦後当時の「朝鮮進駐軍」は今日の朝鮮総連本部である。


今の朝鮮総連となる「在日朝鮮人連盟中央総本部」





「10-衆-法務委員会-12号 昭和26年03月22

○ 押谷委員 

出入国管理庁長官鈴木氏にお尋ねいたしたいと思うのでありますが、

それは昨年の暮れから今春にかけまして、

全国各地において朝鮮人の騒乱事件が起つておるのであります


が、それを契機といたしまして、

朝鮮人に対する送還という関係が相当 

政治的にも関心を集めているようであります。


昨年暮れの政府の発表では、

不逞鮮人特に騒乱事件などを計画、指導したような朝鮮人に対しては、

これを本国に送還する法的措置を講ずる、

政令を出すというような発表まであつたのでありますが、

これはいまだ実現をされておらないようであります。


いずれにいたしましても、朝鮮人の本国送還ということが、

鮮人取締り、鮮人に対する治安関係で大きく浮び出ているのでありますが、

出入国管理庁におかれまして、この鮮人の本国送還というのは

どういう形においてなされておるか、

その事実をひとつお伺いいたしたいと思うのであります。


昭和26年3月22日衆議院法務委員会での押谷委員の発言の議事録は、

我が国の衆議院の公式ホームページから確認出来る。
  ↓
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=16524&SAVED_
RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=1&DOC_ID=21363&DPAGE=9&DTOTAL=165&DPOS=165
&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=24065



終戦後の第三国人どもは本当に酷かった。


軍の兵器を盗んで来たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、

小銃には着剣して 強盗 強姦傷害 恐喝 脅迫 不動産窃盗、

時には殺人まで、経済犯、実力犯を中心にあらゆる悪事を重ねていた。


銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、渋谷は台湾人に支配され

政府も警察も動揺し、手を拱いていた。


戦勝国民は治外法権だったのである。


だから食管法に限らず、戦勝国民には日本法を適用出来なかった。

服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、

そこへ行けば食料に限らず物資は山ほどあった。

日本人は買えなかったが。


そうした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝国民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して

堂々と闇商売を行い、派手に稼いでいた。



そりゃ儲かるだろう。

警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから

(さすがに銃撃戦は挑まなかった模様)。



当時は物不足で、売る方は素人でも出来た。

仕入れこそ難しかった。


彼等は日本人露天商を襲って商品を奪う。


それで警察が黙認して捕まえないのだから、こりゃあ損のしようが無い。


警察が襲撃されることしきりで、署長が叩きのめされたり、

捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず。


上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ国税局査察部が査察に行った際、

大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで

一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった。


当時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、

第三国人の襲来によって犯人を奪還された富坂警察署事件、

ついでに警官が殺された渋谷警察署事件、

共産党が大群で警察署を包囲し外部との連絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、

枚挙に暇有りませんでした。



東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根-中川、江戸川、利根川流域の牛は皆いなくなった。


当時、あの辺は畜力として農耕牛を使っていたが、

深夜、不良朝鮮人が侵入して来て盗み出し、河原へひいて行って屠殺した。

牛はモウと言って泣いたので皆気付いたが、

銃砲刀剣で武装しているので追う訳には行かなかった。



永年愛育し、慈しんで来た牛が悲しそうに泣きながら

ズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、

手向へば殺されるのでどうにも出来なかった。


そうして利根川水系流域一帯の牛は皆、不良朝鮮人に盗まれ、殺され、闇市で売られた。


この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を売りに来たものだ。

上流で屠殺した牛を、そのまま下流へ売りに来たのだろう。


かくて南関東から、牛はいなくなった。


家/畜相手ならまだしも、人間に対しても、関東以西の大都市を中心に、

日本中に灰神楽が立つような勢で数多犯罪を重ねた。


川崎、浜松、大阪、神戸などが酷かった。

その最も著しい象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に対する集団暴行・傷害事件がある。


翁が軽井沢の静養先から帰京しようとして信越本線の汽車に乗っていたら、

例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、

鉄道員を突き飛ばし押入って来て、


「俺達は戦勝国民だ、

おまえら被支配者の敗戦国民が座って支配者様を立たせるとは生意気だ、

この車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、

愚図愚図するな!」と追い立てた。



それで鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座っているのにそりゃおかしい、

と一乗客として穏やかに抗議したら、

たちまち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした。


幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、

頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、

血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した。


年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、

いかに不出来な孫にせよ。

孫共はこれを知らんのだろう。


直後に総理大臣に成る程の大物でもかくのごとし。


いわんや庶民におては 土地も屋敷も物資も操も、奪い放題であった。



闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、

ことには、空襲や疎開で一時的に空いている土地が片端から強奪された。



今、朝鮮人が駅前の一等地でパチ/ンコ屋や焼肉屋を営業しているのは、

皆、あの時奪った被災者の土地
だ。



それでも警察は手が出せなかった。

歴代首相大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察ごときに何が出来よう


ある日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、

と命ぜられれば、それ切り警察は消滅する。


七百万の大軍を擁した彼の帝国陸海軍ですら、

左様にして両総長 両大臣以下、自然廃官になった。

まこと敗戦は悲しからずや。


たまりかねた警察が密かにやくざに頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、

「小戦争」は日本中に頻発した。


最後の頼みの綱は連合国軍であったが、

遂にはその憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った。


それでさすがに米軍も腹に据えかね、

日本本土全域の占領を担当していた米第八軍司令官アイケルバーガー中将が

関東と言はず 関西と言はず、はたまた北九州と言はず、

不良朝鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、

街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、

人の背丈程に大きな重機関銃を構へて不良朝鮮人共にピタリと狙いをつけ、

ようやく鎮圧した。


我々はその火器のきらめきを間近に見た。


この時、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥の発した布告が、

朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と言い声名で、


これぞ「第三国人」なる語のおこりである


だから、外国人差別用語なはずは無い。


彼等自身、マッカーサー元帥以下、一人残らず皆、外国人ではないか。


連合国軍総司令官は、日本人に対してこそ絶大な権勢を振ったが、

本国や同盟国、対日理事会や極東委員会に気を使わねばならぬ

外交センスの要る役職であった。


何人にもせよ、敗戦国民以外を、声名発してまで差別なんぞする筈が無い。


「第三国人」の語は、国際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない。


終戦後の朝鮮人の横暴は目に余るものであった。


東京のど真ん中、銀座の交番に於いてさえ、

朝鮮人を注意した巡査が

複数の朝鮮人の襲撃を受け裸にされ警棒を尻に突っ込まれると言う乱暴を受けた。


当時の日本警察は拳銃の携帯が許されておらず、

朝鮮人の横暴を止められなかった為、政府はマッカーサーに請願した。


これを受けて述べたのが、マッカーサーの

「朝鮮人は戦勝国ではない第三者だ」と言う三国人発言である。



1950年にGHQは日本占領を終結し、解放し、

実質的に戦後は終わったとされています。


その際

朝鮮人は日本籍を剥奪され、韓国籍として朝鮮に帰れと命令しました


不要の朝鮮学校と民団総連も廃止し解散請求しました


すると在日朝鮮人は、なにを履き違えたか

我々は先勝国民であり日本を統治する立場だ」と叫びだし、

革命を叫んで、公共施設の不法占拠し

火炎瓶や武器で武装して決起したのです。


警察も拳銃で対抗し射殺された人もでました


警察では対処できなくなり、GHQは軍隊の動員をして

戦後初の戒厳令を敷いて朝鮮人による暴動を平定しました。


この戦後初の戒厳令が敷かれた朝鮮人動乱(正式名がない)事件は、

日本の歴史からスッポリ抜けています。


死人も出ている事件なのに、日本の教科書には掲載されたことはありません。

(日本各地で勃発しました、栃木や浅草などは戦場状態です)


逆に朝鮮民族学校の教科書には差別と弾圧として掲載され教育されています。


勿論、被害者側としてであり、

立ち上がったのは国籍条項と朝鮮民族学校の廃校に対する

抗議としてであると述べています。


日本人として、在日朝鮮人への危機感は常に持つべきですね。



言っておくが日本国内だけではない。


朝鮮半島を朝鮮を近代化させて、恩あるはずの我ら先人の日本人を集団で襲って、

強姦 強盗 不動産窃盗と悪の限りを尽したのを皆

忘れてしまったのか。


多くの日本人は、朝鮮人に襲われ、無念にも命を落とし、

帰れなかった人は数知れない。


彼らの悔しさを思うと、日本人の敵朝鮮人に参政権という言葉は

決して出てこないはずである。


このことを誰も伝えようとしないが、事実は決して消える物ではない。


朝鮮人の日本人に対する犯罪は、触れては成らない理由があるのか

不思議な日本人達だ。

(ここまで、http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-748.htmlより抜粋転載。)



そして、この様な 不逞 在日韓国朝鮮人による日本人虐待差別は

今も行われ続けている。


そして、日本の警察はその様な不逞な在日韓国朝鮮人どもと癒着し

自国民である日本人を迫害している!!!



阪神教育事件

阪神教育事件(はんしんきょういくじけん)は、

昭和23年1948年)4月14日から同年4月26日にかけて大阪府と兵庫県で発生した

在日朝鮮人と日本共産党による民族教育闘争、騒乱事件。


阪神教育闘争とも呼ばれる。


GHQは、戦後唯一の非常事態宣言を布告した。



事件の発端


当時の民族教育


1947年(昭和22年)10月、

連合国軍最高司令官総司令部総司令官・ダグラス・マッカーサーは、

日本政府に対して

「在日朝鮮人を日本の教育基本法、学校教育法に従わせるよう」に指令した。


このころ在日朝鮮人の子供たちは、日本内地の教育により、

朝鮮語の読み書きが充分にできなかったため、

日本各地で国語講習会が開催され、

文字と言葉を知ったものが先生となり、

在日朝鮮人の子供たちに朝鮮語を教えた。


教材は独自に作成された。


国語講習会は在日本朝鮮人連盟(略称は朝連)事務所や工場跡地、

地元の小学校校舎などを借りて開かれた。


その後、国語講習会は朝鮮人学校に改組され、

学校は全国に500数十校、生徒数は6万余人を数えた。



1948年(昭和23年)1月24日、

文部省学校局長各都道府県知事に対して

「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という通達を出し

朝鮮人学校の閉鎖と生徒の日本人学校への編入を指示した

朝鮮学校閉鎖令)。



同年1月27日、朝連は第13回中央委員会を開催し、

朝鮮学校閉鎖令に対し反対を表明した。

さらに、「三・一独立運動闘争記念日」に合わせて、

民族教育を守る闘争を全国で展開するように訴えた。


大阪府と兵庫県ではこの通達に基づき、朝鮮学校の閉鎖を命じた。

阪神地区では、朝連の宋性澈が闘争の指導に当たった。


事件の概要

大阪府

昭和23年(1948年)4月23日午前9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、

朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。


集会には、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など

7000人余が集結した。


16人の代表が選出され、大阪府庁舎で、大阪府府知事との交渉を行うことになった。


同日午後0時30分、大阪府庁知事室において、

副知事(知事は当日不在だった)と朝鮮人代表者16人との交渉が始まった。


交渉は合意には至らなかった。


同日午後3時、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など

7000人余の中から、シュプレヒコールが起こった。

50人余の青年が、行動隊を編成し、スクラムを組んで、

大阪府庁前の阻止線を突破した。


同日午後3時30分、行動隊に続いて、

在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も、

大阪府庁に突入し、3階までの廊下を占拠した。


副知事は警察官の誘導により、戦時中に作られていた地下道を通って、脱出した。


同日午後5時ごろ、群集は知事室になだれ込んだ。

それから、群集はドアや調度品を破壊した。


日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は、

川上貫一衆議院議員とともに、知事室に駆けつけたが、

どうにもできなかった。



同日夜、大阪城周辺の各所で、

在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人は、篝火を焚いた。


同日、朝連は、川上貫一を代表として交渉の場を作ろうとしたが

アメリカ軍が到着した。


さらに、武装警官も到着した。


その後、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らは、

武装警官隊と乱闘となった。

在日朝鮮人1人が死亡し、在日朝鮮人20人が負傷した。

警官31人が負傷した。

179人が騒擾罪で検挙された。


同年4月25日、朝連や日本人約300人が、大阪南警察署に押しかけ、

逮捕者の釈放を要求した。


警官隊は、約300人に向けて威嚇射撃を行い、追い返した。


同年4月26日、朝連は、大阪東成区や旭区などで、

朝鮮人学校弾圧反対人民大会を開催した。


同日午後、朝鮮人代表者と大阪府知事との間で再度交渉が行われた。


同日午後3時40分、別室に待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、

交渉の中止と、大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示した。


同日、在日朝鮮人1600人のデモ隊が、再び大阪府庁に向かった。

デモ隊は、武装警官隊の阻止線で、投石を開始した。


武装警官隊は、消防車に放水をさせ、デモ隊に突入した。

警官隊はデモ隊に向けて拳銃で発砲した。

在日朝鮮人金太一が死亡した。


検挙者は軍事裁判にかけられた。

日本人9人と在日朝鮮人8人が、重労働4年以下の判決を受けた。


阪神教育闘争の指導者の一人であった朴柱範は、

逮捕・投獄され、釈放された直後に死亡した。


事件解決後、大阪市警察局は、

アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。



兵庫県

昭和23年(1948年)4月10日、兵庫県県知事・岸田幸雄は、

朝鮮人学校に対して、封鎖命令を出した。


同年4月14日、朝連は、兵庫県庁を訪れ、岸田幸雄との交渉を要求した。


同年4月23日、警官隊とMPは、朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖した。


同年4月24日、朝鮮人学校灘校と東神戸校の封鎖に抗議する

在日朝鮮人や日本人が、兵庫県県庁前に集結した。


同日午前9時30分、兵庫県庁知事室で、

岸田幸雄、神戸市市長・小寺謙吉、検事正ら15人は、

朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と、在日朝鮮人の抗議集会対策を協議した。


朝連は兵庫県知事室での密談の情報を入手し、

約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入し、

知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、

壁を打ち破って知事室になだれ込み、岸田幸雄やMPを監禁した。



在日朝鮮人や日本人約100人は、電話線を切断して外部との連絡を絶ち、

「学校閉鎖令の撤回」

「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」

「朝鮮人学校存続の承認」

「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田幸雄に要求した。


同日午後5時、岸田幸雄は、

「学校閉鎖令の撤回」

「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」

「朝鮮人学校存続の承認」

「逮捕された朝鮮人の釈放」を誓約した。


同日午後10時、岸田幸雄、吉川兵庫県副知事、市丸検事正、

田辺次席検事、出井兵庫県警察長、古山神戸市警察局長らは、

占領軍兵庫県軍政部に集められた。


同日午後11時、兵庫県軍政部は「非常事態宣言」を発令した。

これによって、全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入った。


兵庫県庁への乱入者の徹底検挙が命じられ、

岸田幸雄が誓約した「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」

「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などはすべて無効とされた。


同年4月25日早朝、アメリカ軍憲兵や日本警察官は、

兵庫県庁への乱入者を検挙し始めた。


同年4月28日、非常事態宣言が解除された。


同日4月25日から同年4月29日までに、1590人もしくは7295人が検挙された。

日本共産党神戸市市議会議員・堀川一知も検挙された。


検挙した者から主だった者を、拘留し、23人を軍事裁判にかけた。


日本人は堀川一知のみで、重労働10年の判決を受けた。

在日朝鮮人は、最高重労働15年の判決が出され、

刑期終了後は本国に強制送還されることになった。




阪神教育闘争の決着

同年5月5日、朝連教育対策委員長と文部大臣との間で、

「教育基本法と学校教育法を遵守する」

「私立学校の自主性の範囲の中で朝鮮人独自の教育を認、

朝鮮人学校を私立学校として認可する」

との覚書が交わされた。



参考文献

宮崎学『不逞者』幻冬舎 幻冬舎アウトロー文庫、1999年、ISBN4-87728-734-5

神戸市警察史編集委員会『神戸市警察史』1956年

大阪府警察史編集委員会『大阪府警察史 第3巻』1973年

兵庫県警察史編さん委員会『兵庫県警察史 昭和編』1975年

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E6%95%99%E8%82%B2%E4%BA%8B%E
4%BB%B6




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・。・ 長かったね。

最後まで読んだ人、いるかなぁ。



途中にあった、鳩山一郎の件は、このブログでも取り上げた事、あったけど、


実際にボコボコにされたのは、鳩山じゃなくて、

鳩山はそれを目撃しただけらしいけど、


朝鮮人の、そういう暴力を見て、「自衛隊」を作ろうと思ったんだと。



「自衛隊」が日本にあるのは、

朝鮮人から日本人を守るため、だったなんてw











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